ただ一つ後悔せずにすんだこと
皆さん、こんにちは。
次世代の女性を応援するコーチ・メンターの畑さち子です。
これは書こうかどうか、書く必要があるのかどうか、書くとしてこの場が適しているのかどうか、迷いました。
まあ、でもちょっと吐き出したいので、お付き合いください。
もちろんここでやめてくださっても。
叔父が逝きました。
母の弟で83歳。
入退院を繰り返していましたが、家に帰って、家族に世話してもらって1週間目のことでした。
奈良の吉野という町に住んでいました。
桜の名所として有名で、その昔、源義経や後醍醐天皇が京から移ってきた場所でもあります。
まあ、観光的価値、歴史的価値はともかく、今は過疎の町です。
その町の中から出ることなく、生まれたのと同じ家で逝きました。
叔父について書こうか、と思ったのですが、やめます。
叔父の人生、叔父にしかわからないですものね。
叔父の体調が良くないことは昨年くらいから知っていましたが、
「そのうちお見舞いに行かなきゃ。
せっかくなら桜の時期に~~。」なんて呑気に考えていた今年1月の私をぶん殴りに行きたい。
私は小学校の時、東京に住んでいて、夏休みは毎年、弟と2人で1-2週間遊びに行かせてもらっていました。
祖父母が畑に行くのについていって、日がな一日、花を摘んだり、虫をとったり。
帰りに畑の一角にあるご先祖様のお墓に花をお供えし、
採った野菜はそのまま食卓に。。という生活。
家が商売をしていたので、叔父が配達に行くときは
「はいたつ~、はいたつ~~」と叔父にまとわりついて騒ぎながら、
山道のドライブ(笑)に連れて行ってもらった。
川で泳いだり、小魚採ったり、蛍見に行ったり。
私が茶の間(リビングルームじゃないのよ(笑))で高校野球を見ていると、
知らない人(もちろん祖父母や叔父は知ってるんだろうけど)が
「どっち勝っとる~?」とか言って入ってきて、一試合一緒に見たり、みたいなこともあった。
なんかすごいな。。。(笑)
今こうやって書くと
「THE昭和の夏」って感じですね。
そんな呑気で平和な思い出の中には、いつも叔父の優しい笑顔がありました。
身内を褒めるのはどうかと思うけど、叔父はジャニーズ系のイケメンでした、いや、ほんとに。
私の父は昭和の高度成長期時代を生きた、いわゆる猛烈サラリーマンだったのですが、
心配性の母は、父が(その頃はそんな言葉はなかったけれど)過労死するのではないか、と
心配していたようです。
(注:父は今も元気です)
その時に、叔父が
「『兄さんに何かあったら、子ども達を連れて吉野に帰ってくれば良い』と言ってくれてありがたかった」
と母は後に何度も言っていました。
私は子どもだったし、子どもなりに自分を生きることに一生懸命だったから、そんな会話が交わされていたことは
夢にも思わなかったけれども。
月並みな言葉ですが、本当にお世話になったと、
感謝してもしきれないですね。
叔父を含め、沢山の人達のおかげでこれまで生きて来れたと、感謝しかない、です。
で、話は令和に戻りますと、いよいよ叔父の容態が良くなくなってからは、この状況で身動きとれなくなり、それでも「6月になり自粛が解けたら。。」と思っていたら、それも待たずに叔父は走り去っていきました。
従姉妹とは何度も電話で話し、私が語った叔父との思い出を、叔父の耳元で伝えてくれたそうです。
叔父は小さく頷いていたということで、もしわかってくれていたなら嬉しいです。
あんなに大事にしてもらったのに、何も出来ずに、最後のお別れも出来ずに、自分の不孝ぶりに情けなくて泣けます。
けど、たった一つ良かったことは、従姉妹が
「ウエットテイッシュや使い捨てのゴムの手袋のストックがもうなくなるのだけど、田舎なので手に入りにくい。」
と言っていたので、買って送れたこと。
ネットで見たのですが、けっこう在庫切れや発行は6月中旬が多く、在庫があっても品質がちょっと不安だったりもして、結局、ドラッグストア巡りをしました。
マスクが戻ってきたので、他の物もあるか、と思っていましたが、使い捨てのゴム手袋は本当に無かったですね。
とはいえ、さすが横浜、というか何というか、徒歩圏だけでドラッグストアは10軒以上あり、ムスメにも手伝ってもらって、₁軒₁軒回って、一通りリクエストの物は手に入りました。
すぐに送って、また従姉妹が叔父の耳元で
「さちこお姉ちゃんとめぐちゃん(←ムスメの名前)が買いに歩いてくれたんやて!」と言ってくれたそうです。
もう話すことは出来なかったけど、耳だけは聞こえていたのではないか、と。
これは私の勝手な希望的憶測ですけどね。
叔父がわかったかわからなかったか、はともかく、わたしの気持ちとしては
「せめて間に合って良かった」と。
「今日は一日中オンラインで仕事だから」とか
「今日は○○で忙しいから」言って先延ばしにしないで、本当に良かった。
そんなこと言って間に合わなかったら、また後悔でいっぱいだったと思います。
今回学んだことは、
「気持ちは行動で表すこと」
「大事だと思ったことは、すぐにする」
ということです。
実はいつもそう思っているのだけれど、出来ないことも多い。
悔いなく生きていきたい、といつも思ってはいるのですけれどね。
今回も後悔は多いですが、
まあ、せめてウエットテイッシュとゴム手袋が送れることができたので、自分が救われました。
次世代の女性を応援するコーチ・メンターの畑さち子です。
これは書こうかどうか、書く必要があるのかどうか、書くとしてこの場が適しているのかどうか、迷いました。
まあ、でもちょっと吐き出したいので、お付き合いください。
もちろんここでやめてくださっても。
叔父が逝きました。
母の弟で83歳。
入退院を繰り返していましたが、家に帰って、家族に世話してもらって1週間目のことでした。
奈良の吉野という町に住んでいました。
桜の名所として有名で、その昔、源義経や後醍醐天皇が京から移ってきた場所でもあります。
まあ、観光的価値、歴史的価値はともかく、今は過疎の町です。
その町の中から出ることなく、生まれたのと同じ家で逝きました。
叔父について書こうか、と思ったのですが、やめます。
叔父の人生、叔父にしかわからないですものね。
叔父の体調が良くないことは昨年くらいから知っていましたが、
「そのうちお見舞いに行かなきゃ。
せっかくなら桜の時期に~~。」なんて呑気に考えていた今年1月の私をぶん殴りに行きたい。
私は小学校の時、東京に住んでいて、夏休みは毎年、弟と2人で1-2週間遊びに行かせてもらっていました。
祖父母が畑に行くのについていって、日がな一日、花を摘んだり、虫をとったり。
帰りに畑の一角にあるご先祖様のお墓に花をお供えし、
採った野菜はそのまま食卓に。。という生活。
家が商売をしていたので、叔父が配達に行くときは
「はいたつ~、はいたつ~~」と叔父にまとわりついて騒ぎながら、
山道のドライブ(笑)に連れて行ってもらった。
川で泳いだり、小魚採ったり、蛍見に行ったり。
私が茶の間(リビングルームじゃないのよ(笑))で高校野球を見ていると、
知らない人(もちろん祖父母や叔父は知ってるんだろうけど)が
「どっち勝っとる~?」とか言って入ってきて、一試合一緒に見たり、みたいなこともあった。
なんかすごいな。。。(笑)
今こうやって書くと
「THE昭和の夏」って感じですね。
そんな呑気で平和な思い出の中には、いつも叔父の優しい笑顔がありました。
身内を褒めるのはどうかと思うけど、叔父はジャニーズ系のイケメンでした、いや、ほんとに。
私の父は昭和の高度成長期時代を生きた、いわゆる猛烈サラリーマンだったのですが、
心配性の母は、父が(その頃はそんな言葉はなかったけれど)過労死するのではないか、と
心配していたようです。
(注:父は今も元気です)
その時に、叔父が
「『兄さんに何かあったら、子ども達を連れて吉野に帰ってくれば良い』と言ってくれてありがたかった」
と母は後に何度も言っていました。
私は子どもだったし、子どもなりに自分を生きることに一生懸命だったから、そんな会話が交わされていたことは
夢にも思わなかったけれども。
月並みな言葉ですが、本当にお世話になったと、
感謝してもしきれないですね。
叔父を含め、沢山の人達のおかげでこれまで生きて来れたと、感謝しかない、です。
で、話は令和に戻りますと、いよいよ叔父の容態が良くなくなってからは、この状況で身動きとれなくなり、それでも「6月になり自粛が解けたら。。」と思っていたら、それも待たずに叔父は走り去っていきました。
従姉妹とは何度も電話で話し、私が語った叔父との思い出を、叔父の耳元で伝えてくれたそうです。
叔父は小さく頷いていたということで、もしわかってくれていたなら嬉しいです。
あんなに大事にしてもらったのに、何も出来ずに、最後のお別れも出来ずに、自分の不孝ぶりに情けなくて泣けます。
けど、たった一つ良かったことは、従姉妹が
「ウエットテイッシュや使い捨てのゴムの手袋のストックがもうなくなるのだけど、田舎なので手に入りにくい。」
と言っていたので、買って送れたこと。
ネットで見たのですが、けっこう在庫切れや発行は6月中旬が多く、在庫があっても品質がちょっと不安だったりもして、結局、ドラッグストア巡りをしました。
マスクが戻ってきたので、他の物もあるか、と思っていましたが、使い捨てのゴム手袋は本当に無かったですね。
とはいえ、さすが横浜、というか何というか、徒歩圏だけでドラッグストアは10軒以上あり、ムスメにも手伝ってもらって、₁軒₁軒回って、一通りリクエストの物は手に入りました。
すぐに送って、また従姉妹が叔父の耳元で
「さちこお姉ちゃんとめぐちゃん(←ムスメの名前)が買いに歩いてくれたんやて!」と言ってくれたそうです。
もう話すことは出来なかったけど、耳だけは聞こえていたのではないか、と。
これは私の勝手な希望的憶測ですけどね。
叔父がわかったかわからなかったか、はともかく、わたしの気持ちとしては
「せめて間に合って良かった」と。
「今日は一日中オンラインで仕事だから」とか
「今日は○○で忙しいから」言って先延ばしにしないで、本当に良かった。
そんなこと言って間に合わなかったら、また後悔でいっぱいだったと思います。
今回学んだことは、
「気持ちは行動で表すこと」
「大事だと思ったことは、すぐにする」
ということです。
実はいつもそう思っているのだけれど、出来ないことも多い。
悔いなく生きていきたい、といつも思ってはいるのですけれどね。
今回も後悔は多いですが、
まあ、せめてウエットテイッシュとゴム手袋が送れることができたので、自分が救われました。
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